面白い小説読んでいる最中、2/3過ぎた頃に残りのページが気になることありませんか?読書疲れと、この物語を楽しめる時間は後いかほどかと気になるのです。人生も後半を過ぎると余命が気になります。100歳過ぎても自分がまさか明日死ぬとは思わないものです。明日の次、その次も当然ある、などと思ってしまう人間は楽観的なんでしょう。

ドラマだと癌患者に余命宣告する場面をたびたび見るのですが、現実では私はまだ経験したことがない。担当医者も患者に直接そんなむごいことを言いたくないでしょう。でも実際現実世界で、直接、貴方の余命は3か月と言われたらかなり落ち込むと思う。藁おもすがる気持ちで助かる方法は無いかといろんな方法や妙薬を探すか、あるいはガックリきてしまって何もやる気が失せるか。大抵の人はその両方でしょう。
人は生まれた瞬間余命を宣告されて生まれます。長生きしてもせいぜい120年です。殆どの人は、長くて余命120年と宣告されています。といっても10年以上の時間は余命とは言わないか。
それはいいとして、人は重度の病気とかかなり生存リスクの高い状況に置かれると自分の余命は後どのくらいかと気になるものです。それも10年以上とか言われると切迫度がないので真剣に考えないが、1年とか3か月とか言われるとうろたえてしまう人が多いのでは。後期高齢者の歳になると、平均生存寿命に近いから、多くの人は背後から死神の足音が間近に聞こえてくるといわれる。どんな足音か、私にも近々聞くことがあるでしょう。
余命という言葉を聞くと、自殺という単語もよぎる。これは自ら余命を決める方法です。
自殺には、良い自殺と悪い自殺がある?
日本は自殺は余り肯定されていないようです。昔、練炭自殺というのが流行しました。若者が、流行とはいえ、あんなに度々メディアを騒がすのか不思議でした。精神的な病気なのか、あるいは生きているより自殺してあの世に行ったほうが幸せと考えたのか。人生は誰にとっても辛いことがあるようで、家康が本当に言ったのかどうかは知らないが、人生は重荷を背負うて…….とか聞いたことがある。最近では、多くの他人を巻き込んでの自殺が流行った。一人で死ぬのもどうかと思うのですが、他人迄巻き込んでの自殺は迷惑至極、巻き込まれた遺族の嘆きがどれほど大きいか想像できない。
親にとっては、自分より早く死なれること、特に自殺なんかされたらたまらない。虐めて我が子が自殺なんて、当然親は気が狂わんばかりに悩み苦しむでしょう。
自殺でも、零細とかの経営者が自殺して遺族に生命保険を残す、などというのは肯定はしないが涙が出ます。
安楽死というのがあります。日本では医療行為の安楽死は許されていません。たまに、安楽死させた医者がいると大きく報道される。ですから安楽死を望む人は安楽死を許されている外国に行かねばならない。大きな苦痛を伴う末期のがん患者とかは外国では合法的に安楽死治療を受けることが出来るようです。確かに末期の患者で苦痛にあえぐのは本人も家族も望まない。麻薬治療で苦痛を抑えるわけですが、これも段々効かなくなるとか。自分がそのような状況に陥った時、殺してください、と願うのではないでしょうか。保険は適用されるのかな?
キリスト教の一部では、自殺すると祭ってくれないとか?あれ本当かな?差別?
と、いろいろ人生の最後に思いをはせると、ぼつぼつおいらも終活の準備をしないといけないな、と自省するのでした。まず何から?いや、思いついたこと順番問わず、始めるのがいいかな。すぐ忘れてしまうから。