雑談

たまに死について考えることがあるのだが……

 みんなもたまには死について考えるのかな。人生も50過ぎる頃から、だんだん死について考える人が多くなるのでは。人間、最近では100歳超も珍しくないが、さすがに130歳とかいう人は聞かない。50過ぎると、人生も半ばすぎて残りの人生があと何年かと気になってくる。平均寿命が200歳くらいあればあわてることもないのだが。死は一定と言われ、生まれた瞬間、死へのマラソンを走り続ける。昔古典の漢語の教科書で、人間50歳になったら悟ることが出来ると書いてあったが、周り見ても悟った人間は一人もいない。みんな迷い迷って必死に生きている。人間が悟るなんて無いのかもしれない。キリストも釈迦もマホメットも悩みながら亡くなったから、人はその悩む生き方に感銘と尊敬の念を抱くのだろう。死についてたまに考えることはあるが、ちょつと脳裏にかすめるだけで、大抵の人は真剣に考えたことは無い。楽天的というか、いや考えてもしょうがないと思っているのか。一応、宗教を信じた振りをしている人も、まさか自分が死んだら仏になるとか、神の国に行けるとは本心では思っていないが、死ぬ間際に余り子供のような疑問を発しては悟ったオトナと思われないので、諦観して仏の国に旅立つ振りをする。いやそう思いたいから楽土に行けると自己暗示にかけてオトナ然をしたくなるのだろう。人間とは最後の最後まで欺瞞的な動物だ。以前、ガンで死ぬ間際の友達から、半分冗談、半分不安そうに、死んだらどうなるのだろうか?と、つぶやくように問われたことがある。残念ながら、彼の言葉に返す言葉が見いだせなかった。どう答えたかも忘れてしまった。茶化してしまったか、悟りきったような返事をしたのか。いや多分無言の返事をしたような。あそこで、私も悟ったような哲学的な説明でもしたら、友達の素朴な疑問に嘘をついた非礼な答えとなっただろう。少なくとも嘘をつかなくて良かった。死後にも意識はあるのか、肉体はどうなるのか、幸福、不幸の感受性はあるのか、鶏のように飛べるのか、死後の世界にも重力はあるのか、友達は出来るのか、とかいろいろ漫画のような疑問の雑念は湧くのだが。

 凡庸な頭で、死の世界は?死んだら其の後はどうなるの?とか。いろいろ妄想はするのだが、誰も見てきた人はいないようだし体験談を聞くことは出来ない。臨死体験とかいうのも聞くが、臨死と実際の死とは全く別物ではないかと思うので、余り参考にはならない。

 人間の六感ではなかなか認識できない事柄は多い。真空。宇宙。時間。有限、無限。こんな概念を子供の頃に、真剣に考えたこともあるのだが、この言葉の真理は今も理解出来ていない。

 時々思うのだが、ドラマや映画に出てくるタイムカプセルなるものは、未だに一向に発明される気配が無い。あったら便利だし、これがあれば人生も何度もやり直せて、何度もやり直したら、そのうち理想的な人生を誰もが過ごすことが出来るのに。米国も中国も、タイムカプセルの開発に大金投じたとかいう話も聞かない。人間にとって時間のコントロ-ルは今のところ不可能という結論でも出ているのかな。最近、夜空を観る人は少ない。夜空を観れば、宇宙はるかの星の光は、数百年前、数千万年前、いや数光年前の世界を観ているのだが。近くて遠いタイプカプセル。

  と、誰しも、認識出来ないいろんな概念や疑問、その一つの、死というものの実態を知らないで、不安を抱えながら、未解決のまま旅立つことになる。今、「死役所」、というドラマ観ながら、ふと考えるのでした。

 追記)今思いだしたのだが、後2~30年経ったら、人は死ななくなるとかいう学者の話を聞いた。それまで生き残っている人は幸運かな。人の死は大抵肉体の老化、科学が進めば、老化した肉体は機械の部品のように交換出来る時代になるという。細胞の研究が進み、元の細胞から、どんな肉体細胞も作り出せる時代が近いとか。ありそうな話でもあるが、ありそうで不可能にも思える。40年くらい前に発刊されたニュ-トンという雑誌の特集で、20年後の2000年になったらどんな世界になっているかという未来予想の特集版の記事読んだのだが、残念ながら予想の大半は外れていた。科学の進化は思いの他予想より遅い。又、人間が死ななくなったら、それはまた大きなも問題を生む。生物の最大のパニッシュは不死と言われている。実際不死を体験した人間を知らないので、それがどれほど苦しいのかは想像の範囲でしか思い至らないのだが。映画とかだと、知能と意識を持つAIに支配されて将来人間は不死化されてロボットのように永遠の奴隷として生きる、とかいうのはいろいろ観たのだが。いやいや、その前に疫病や大災害で人類は淘汰されてしまわないか、とかハードルの高い難問は尽きないな。

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